§1 「発明」とは、「発見」又は「発想」及び「発想後のプロセス」をいう

 司馬遷(BC145~BC86年)の「史記」、班固(AC32~92年)らの「漢書」では「発明」は、「開き明らかにする」こと、すなわち「発見」の意で用いられていた。英語の発明(invention)の語源はラテン語で、「ある考えなどが心の中にやって来るとか発現する」という意味だそうである。「ある考えなどが心の中にやって来る」とは「発想」である。

 よって、「発明」とは「発見」及び「発想」をいうことになる。「発見」には、自分の外部にある実験データ等の「実体」を把握した「情報」である。「発想」とは、自分の脳の中に「意識現象」としてやって来た「情報」である。

 ラテン語の「発見する」はinvenireと表記される。ラテン語の「発見(すること)」はinventioであり、ラテン語の「発見(したもの)」はinventumと表される。本来、英語はラテン語のイタリック語派とは別系統のゲルマン祖語から発生しているが、1066年に当時のイングランドがノルマン人(フランス人)により征服(ノルマン・コンクェスト)された結果、古英語から派生した中英語にイタリック語派のフランス語の借入が発生し、フランス語のinvention(アンヴァンシオン)が英語のinventionになったようである。

 ゲルマン祖語の系統のドイツ語では、発明は、Erfindungであり、「見つけ出す」という意に基づいているとされる。ドイツ語の専門家に聞いたところ、erfinden, Erfindung の語源はラテン語のinvenire,まで遡れるようである。

 「情報理論」では一般に「意識現象としての情報」とは、「実体としての情報」を人間の意識が読み取った情報であるとされるが、実際には「実体としての情報」には自分の外部にある情報と、自分の脳の内部にやって来た情報が含まれる。

 しかし、心の中にやって来た単なる「発想」は特許法上の「発明」ではない。英国の1949年の特許法の解説書には、「発明(invention)」は本来が「マニファクチャー(manufacture)」で、ラテン語でmanus は 手、facere は 作る、つまり手を使って何かを作るということであり、手を使わないで頭だけで考えるのはいけないと記載されている。

即ち、心の中にやって来た単なる「思いつき」である「発想」を、実際に手を使って作り、失敗したときが、特許法上の「発明」としての権利を主張できる技術的思想が生まれるのである。

 この、心の中にやって来た「発想」を、実際に手を使って作り、失敗してどこが難しかったかという「発想後のプロセス」を記録するのがラボラトリー・ノート(LABORATORY NOTEBOOK)である。具体的には、ラボラトリー・ノートには以下の内容が記載される:

 (a)発想時のアイデアや仮説の独創性を示す内容。研究課題の提供又は研究課題が既知であれば、その課題解決の方向づけや、その研究課題(1次的課題)を解決するために発見した新たな研究課題(2次的課題)の内容
 (b)上記発想を具体的な研究に展開する際の実験計画や、新たな実験装置を設計する際の工夫や推考の内容。実験計画に予備実験が必要であれば、その内容
 (c)その実験計画や実験装置を運転して、実際に結果を得る段階でのパラメータ、実験条件、環境条件の設定等、実験上の工夫の内容(その結果を得るまでの苦労の足跡)。特に、その日の個別的な実験目的や計画、その日の実験手順、その日の実験に使用した装置、その日の実験に使用した材料や試料、ロット番号等と、その日の実験結果等、毎日得られる情報が基本的な内容となる
 (d)その結果を考察し、結論として、特許出願可能な発明を導き出す段階での知的作業(その結論を得るための知的努力の内容)


§2 米国特許法の改正

 米国特許法ができた1790年に、ジョン・フィッチ、ジェームス・ラムゼイ、ネータン・リード、ジョン・スティーヴンス及びアイザック・ビッグスの5人の発明家による蒸気船に関する発明の出願が競合した。

 出願日を基準に特許性を判断すべきと先願主義を主張した司法長官ランドルフに対し、ジェファーソンは発明完成の前後を基準に特許性を判断すべきと先発明主義を主張し、米国の特許委員会は紛糾したそうである。

 紛糾する論争に愛想を尽かしアイザック・ビッグスは中途で権利化を断念した。結局、1791年8月26日にジョン・フィッチ、ジェームス・ラムゼイ、ネータン・リード及びジョン・スティーヴンスの4人の発明者すべてに同時に特許が与えられることとなった。

 ただし、米国の特許委員会は広範囲な独占的特許権を認めず、各特許権者に蒸気船の新しい部分だけを特許とした。独占を失ったことから4人の特許権者の出資者は続々と手を引いていったようである。その後、ロバート・フルトンが、1809年2月11日に改良設計した特許を取得し、商業的に成功した。

 このような混乱が米国を先発明主義に導いた理由とされているが、2011年9月16日にオバマ大統領が米特許法改革法案「America Invents Act」へ署名したことに伴い、米国特許法が大改正された。ついに、米国特許法は、先発明主義から先発表型先願主義(First-Inventor-to-File)への移行することとなり、2013年3月16日に発効した。

 先発表型先願主義への移行に伴い、米国特許法第102条(35 U.S.C. 102)の新規性及び第103条(35 U.S.C. 103)の非自明性(日本でいう進歩性)の判断基準が、発明した日ではなく、米国特許庁に出願した日となる。

 この判断基準となる出願日は、米国特許法第100条の(i)(1)(35 U.S.C. 100(i)(1))に「(A)米国にて特許又は出願された最先の現実出願日、又は、(B)最先の外国・PCT出願に係る優先日」を「有効出願日effective filing date」として定義されている。改正された米国特許法第100条(i)(1)の規定は以下のとおりである:

(i)(1) The term 'effective filing date' for a claimed invention in a patent or application for patent means--
 (A) if subparagraph (B) does not apply, the actual filing date of the patent or the application for the patent containing a claim to the invention; or
 (B) the filing date of the earliest application for which the patent or application is entitled, as to such invention, to a right of priority under section 119, 365(a), or 365(b) or to the benefit of an earlier filing date under section 120, 121, or 365(c).


§3 先発明主義の時代にはラボラトリー・ノートが重要であった

 米国特許法第100条(a)(35 U.S.C. 100(a))には、「発明」とは、「発明」もしくは「発見」を意味すると定義している。これに対し、カントは、「発見」というのは、以前から既に存在していて単に未だ知られていなかったものを見いだすことであり、「発明」とは、それを作った技術家によって初めて存在するようになったものであるとして、米国特許法第100条(a)とは異なるように定義している(カント『実際的見地における人間学』)。

又、京都大學名誉教授の田中美知太郎先生は、『発明発見のプロセスは哲学の領域である。それが論理的に証明されたときに科学になる』と述べられている。発明発見のプロセスがいつなされたかということを記録に残すことが極めて重要である。 

 特に、2013年3月16日に以前の先発明主義の時代においては、ラボラトリー・ノートは、発明が、いつ、誰によって完成されたかを証明する発明日の立証に重要とされていた。ラボラトリー・ノートの重要性を示す一つの例が、「真のレーザの発明者は誰か?」という米国における長い訴訟である。

 歴史的な経緯を見ると、レーザの米国特許は、1958年7月にA.L.ショーロー(Schawlow)とC.H.タウンズ( Townes)が出願し、1960年3月に米国特許(USP2.929,922)が付与されていた。そして、タウンズは、N.G.バソフ(Basov),A.M.プロホロフ(Prokhorov)と共に1964年にノーベル物理学賞を受賞した。ショーローはタウンズの義弟であるが、ノーベル賞受賞者は3名と定められていたせいか、遅れて1981年にノーベル物理学賞を受賞している。

 しかし、タウンズと同じコロンビア大學の学生だったグールド(Gordon Gould)が1957年11月にレーザの着想の記録をラボラトリー・ノートに残していたのである。グールドは、光誘導放出による光を作り出す装置を考案し、この光をLASER(Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation)と名づけ、簡単な計算式とともに、その着想の記録をラボラトリー・ノート残していたのである。

 グールドは、28年間の訴訟(抵触審査)で600万ドルを費やしたが、最終的に、1987年にグールド特許(USP4704583)が認められた。米国では、「真のレーザの発明者はグールドである」とされ、その結果グールドは4600万ドルの利益を得たとされている。

 ちなみに、西澤潤一元東北大総長の「半導体レーザ」の特許(日本国特許第273217号)の日本国特許庁への出願日は、グールドのラボラトリー・ノートよりも7月早い、1957年4月なので、「真のレーザの発明者は西澤潤一先生である」。日本国特許庁への出願日は、ラボラトリー・ノートよりも証拠能力が高いので、グールドのように裁判で争う必要もない。

 特許第273217号の出願日とその存在は後日、米国に知られることとなり、1970年のエレクロトニクス誌の表紙は西澤教授の顔写真が飾ることになる。2002年の米国電子電気学会(IEEE)の西澤潤一メダルの設立は米国人が西澤教授をグラハムベルやエジソンと同列に評価したものと解釈できる。なお、バソフが半導体レーザの論文を発表したのは1961年になってからである。

 米国特許庁の発表(1999 INTERFERENCE ROUNDTABLE)によれば、1999年当時において、1年間で187件のインターフェアレンスの結審があったようである(http://www.uspto.gov/ip/boards/bpai/interf/transcript/inter102099.pdf)。


§4 先発表型先願主義になってもラボラトリー・ノートは必要である

 「冒認出願」とは、真の発明者でないものが真の発明者からその発明を盗み、自己もしくは第三者を発明者であるとしてした出願をいう。改正後の米国特許法102条(b)(2)(A)には、以下のように冒認出願となった場合の例外が規定されている:

(2) DISCLOSURES APPEARING IN APPLICATIONS AND PATENTS.—A disclosure shall not be prior art to a claimed invention under subsection (a)(2) if—
 (A) the subject matter disclosed was obtained directly or indirectly from the inventor or a joint inventor;

 即ち、米国特許法102条(b)(2)(A)には、『開示された主題が直接又は間接に発明者又は共同発明者から取得されたものである場合』、新規性(すなわち特許性)を喪失することはないと規定されている。 

 このように、改正後の米国特許法によれば、ある発明の主題が第三者へ開示され、それに基づき第三者が真の発明者より先に米国特許出願をした場合、後の出願人である真の発明者は、米国特許法135条で定められた冒認手続き(derivation proceeding)を申請することができる。

 米国特許法135条では、「先の出願における発明者がクレーム対象発明を冒認出願したことを具体的に述べ、かつこの出願が真の発明者許可なしになされたことを述べなければならない……」と規定されている。なお、改正前の米国特許法には「冒認(derivation )」という用語は存在しなかった。

 米国特許法135条で定められた申請では、申請人(後願者)は、自らが真の発明者であることと当該発明が何らかの手段により先願者に伝えられたことを証明しなければならず、そのために必要となるのがラボラトリー・ノートの記録である。

 既に述べた、「真のレーザの発明者」とされたグールドの場合は、改正前の米国特許法のインターフェアレンス手続きをしている。インターフェアレンス手続きの場合、最初の発明者は発明の着想と勤勉さ/精励義務を証明しなければならない。しかしながら、改正後の米国特許法135条の冒認手続きで要求される証拠は、改正前のインターフェアレンス手続きで要求される証拠と比べ、はるかに入手が困難である。

 インターフェアレンス手続きに必要な事実は、ラボラトリー・ノートから得られる証拠と、最初の発明者のコントロール下にある他の情報源から入手することが可能である。これに対し、米国特許法135条の規定により、他者の冒認行為を立証することは、とりわけ冒認行為が間接的になされた場合は、困難である。

 改正前のインターフェアレンス手続きでは競合他社に発明を取られてしまう可能性があったので、企業にとってのラボラトリー・ノートの日付の重要性は高かった。しかし、冒認手続きでは、多くは身内内の争いが多い。身内同士の争いであれば、いずれにしても組織のもの(企業のもの)になるから、改正前の米国特許法に比べれば、ラボラトリー・ノートの日付の重要性は低くなり、組織内で誰が何を発明したかの記録が重要になったともいえる。

 我が国でも、他人の発明について正当な権原を有しない者(発明者でも、発明者から特許を受ける権利を承継した者でもない者)が特許出願人となっている出願は、「冒認出願」と呼ばれており、拒絶理由を有するものとされている。我が国の特許法第49条第7号には、「その特許出願人がその発明について特許を受ける権利を有していないとき」は、審査官は、その特許出願について拒絶をすべき旨の査定をしなければならないと規定されている。

 また、特許を受ける権利が共有に係るときは、各共有者は、他の共有者と共同でなければ、特許出願をすることができないとされている(特許法第38条)。特許法第38条に違反する特許出願は拒絶理由を有する(共同出願違反、特許法第49条第2号)。

 我が国で、真の発明者や真の権利者が冒認行為又は共同出願違反行為を発見した場合、無効審判(特許法第123条第1項第2号、第6号)を請求することにより、当該特許を無効にすることが可能である。又、真の権利者は、不法行為に基づく冒認又は共同出願違反をした者に対する損害賠償請求が認められる可能性がある(民法第709条)。

 冒認行為又は共同出願違反行為の問題の発生を防止するためには、誰が真の発明者であるか、その発明に対する共同発明者の貢献度の順位はどのようになるかを共同研究者全員で協議しておき、「貢献度表」の形式で記録に残しておくことが重要である。「貢献度表」については後述する。

 更に、真の権利者は、新規性喪失の例外(特許法第30条第2項)により、冒認出願の公開等から6月以内に出願をすることで特許権を取得できる可能性がある。

 米国の改正法102条(b)(1) には、改正後の米国特許法では先発表型先願主義移行後も、新規性喪失の例外規定として、有効出願日の前1年以内の極めて狭い範囲のグレースピリオドが与えられている。即ち、改正法102条(b)は例外(EXCEPTIONS)として、以下のようにグレースピリオドが規定されている:

(1) DISCLOSURES MADE 1 YEAR OR LESS BEFORE THE EFFECTIVE FILING DATE OF THE CLAIMED INVENTION.—A disclosure made 1 year or less before the effective filing date of a claimed invention shall not be prior art to the claimed invention under subsection (a)(1) if—
(A) the disclosure was made by the inventor or joint inventor or by another who obtained the subject matter disclosed directly or indirectly from the inventor or a joint inventor; or
(B) the subject matter disclosed had, before such disclosure, been publicly disclosed by the inventor or a joint inventor or another who obtained the subject matter disclosed directly or indirectly from the inventor or a joint inventor.

(1) クレームされた発明の有効出願日の前1年以内になされた開示は、以下の各号に該当する場合は、クレームされた発明に対する(a)(1)の規定による先行技術とならない。
(A) 当該開示が発明者、若しくは共同発明者、又は発明者若しくは共同発明者から直接的若しくは間接的に開示された主題を取得した他人によりなされたとき;又は
(B) 当該開示された主題が、発明者、若しくは共同発明者、又は発明者若しくは共同発明者から直接的若しくは間接的に開示された主題を取得した他人により、当該開示の前に、既に公に開示されていたとき

改正法102条(b)(1) のグレースピリオドに依拠して新規性喪失の例外規定を用いようというのであれば、発明の様々な側面についてその着想日を示すことが必要になる。何を発明したのか、いつ発明したのか、その発明を誰かが窃取したかなどを宣誓供述するプラクティスは、改正後の米国特許法でも存在する。いつ誰が何を発明したかを、しっかり記録することは、改正後の米国特許法でも依然として重要である。

 冒認出願や新規性喪失の例外規定と切り離しても発明者の特定やミスの訂正など、特許庁における審査の段階や裁判の段階で、ラボラトリー・ノートによる証拠が必要とされる場面はある。

 例えば、特許権者が臨床試験の原資料(データ)を保管せず、特許後、破棄してしまったため、出願書類の真実性に関する証明ができず、特許権(特許第3193028号)が無効とされた例もある(平成15年(行ケ)第166号 平成17年1月18日東京高裁判決言渡し)。したがって、ラボラトリー・ノートは特許権が存続している限り保存しておく必要がある。

米国では、従来はビジネス方法に限定されていた先使用権が、今回の特許法改正では、対象についての限定を削除して広い範囲で認められるようになった(米国特許法第273条)。我が国においては、特許法第79条に先使用権が規定されおり、先使用権の立証のためにラボラトリー・ノートは重要である。

 なお改正された米国特許法第273条(e)(5)には、大學などの高等教育機関(institution of higher education)又は技術移転機関(technology transfer organization)が有する特許については先使用権を主張できないという特例がある。

 更に、我が国の特許法第69条第2項第2号には、「『特許出願の時から日本国内にある物』には特許権の効力は及ばない」という規定がある。特許法第69条第2項第2号の規定は、既存状態の保護のための規定であるとされているが、特許法第79条の先使用権の要件に該当しない場合を対象としているとのことである。

 例えば、当該物を秘密に所持していて、その現物の所持が当該発明の実施又は実施の準備に該当しない場合が該当すると解釈されているようである。通常は、その「物」が出願の時から存在すれば、その特許は無効であるが、何等かの理由でその特許を無効にしたくない場合、例えば、特許権者の発明を盗んで、特許権者の出願より先に製造された物等が該当するのではないかといわれているが、このような場合にも、ラボラトリー・ノートの存在価値が生じる可能性がある。

 最後になってしまったが、組織の「構造資産(Structural Capital)」としてのノウハウ文書もラボラトリー・ノートであり、ノウハウ文書の管理や証拠能力は、米国特許法の改正前、改正後を問わず、極めて重要である。「構造資産」については後述する。

 よって、米国特許法が先発表型先願主義に改正された後でも、ラボラトリー・ノートは知的資産の機軸として極めて重要である。


§5 ラボラトリー・ノートとして重要な貢献度表

 発明者の順位を決める作業や、真の発明者は誰かを共同研究者がきちんと協議しておくことが、冒認行為又は共同出願違反行為の問題の発生を防止するために重要になる。

 STAP細胞については、対応する国際特許出願(PCT出願)がされおり、既に国際公開されている(WO 2013/163296A1)。

 PCT出願(WO 2013/163296A1)の発明者は以下の順番で記載されているが、NATUREの論文の取り下げに反対しているチャールズ・ヴァカンティ教授が筆頭発明者である。第2発明者は、ヴァカンティ教授の2歳下の弟マーチン・ヴァカンティである。

      VACANTI, Charles A.; (US).
      VACANTI, Martin P.; (US).
      KOJIMA, Koji; (US).
      OBOKATA, Haruko; (JP).
      WAKAYAMA, Teruhiko; (JP).
      SASAI, Yoshiki; (JP).
      YAMATO, Masayuki; (JP)

 NATUREの論文では小保方さんはトップネームであるが、PCT出願(WO 2013/163296A1)では、小保方さんは4番目の発明者になっている。この発明者の順位はどのように決められたのであろうか。

 このためには、貢献度表を共同研究者全員で協議しておくことが必要である。貢献度表は、西澤潤一元東北大総長が発案され、論文投稿の際と、特許出願の際に必ず共同研究者が全員で協議して決めたものである。

 貢献度表では、発想時のアイデアの独創性への寄与分配率(課題の提供又は課題が既知でれば、その課題解決の方向づけへの寄与分配率)をm1、上記発想を具体的な研究に展開する際の工夫への寄与分配率をm2、その展開から、実際に結果を得る段階での寄与分配率(その結果を得たのは誰か)をm3、その結果を考察し、結論として、特許出願可能な発明を導き出す段階での寄与分配率(その結論を得たのは誰か)を寄与分配率m4として(m1+m2+m3+m4=1)、それらの寄与分配率のそれぞれにおける各共同研究者の貢献度が重みとして発明への貢献度の総合評価が計算される。

 例えば、共同研究者1の貢献度は寄与分配率m1の評価項目への貢献度がx11、寄与分配率m2の評価項目への貢献度がx12、寄与分配率m3の評価項目への貢献度がx13、寄与分配率m4の評価項目への貢献度がx14であれば総合評価y1は、以下の式から計算される:

y1=x11・m1+x12・m2+x13・m3+x14・m4

 同様に、共同研究者2の貢献度は寄与分配率m1の評価項目への貢献度がx21、寄与分配率m2の評価項目への貢献度がx22、寄与分配率m3の評価項目への貢献度がx23、寄与分配率m4の評価項目への貢献度がx24であれば総合評価y2は、以下の式から計算される:

y2=x21・m1+x22・m2+x23・m3+x24・m4

 共同研究者3についても、同様に、総合評価y3は、以下の式から計算される:

y3=x31・m1+x32・m2+x33・m3+x34・m4

 共同研究者が3名であれば、y1+y2+y3=1である。総合評価の値y1、y2、y3を比較して、今回の特許出願に際して、だれを筆頭発明者とするか等の共同発明者の順位の決定、或いは、共同発明者ではないという決定がなされる。

 技術分野により寄与分配率m1,m2,m3,寄与の値は異なる。特に、化学系や薬品の分野では、「着想」よりも、「実際に結果を得るまでの実験の過程」が、他の分野に比して、重要視されるのでm1よりもm2やm3の値の方が大きくなる。一方、機械や電気系の場合は、m1の方が、m2やm3よりも相対的に重要視される場合がある。

 平成13年(ワ)第7196号(東京地裁平成14年8月27日判決)では、製法のヒントになる文献を見つけた製薬会社の製剤研究室長は発明者ではなく、製剤研究室長からヒントを受けてコーティング技術の開発をした製剤研究室長の部下が発明者であるという認定を受けている。

 STAP現象は、既に2001年にヴァカンティ兄弟によって偶然に発見されていたようである。その後、小保方さんがハーバード大學に2008~2010年に留学したとき、小保方さんがヴァカンティ兄弟の手法よりも厳密な方法で再現することに成功したという経緯があり、この経緯によって、PCT出願の発明者の序列が定まったようであるが、果たして貢献度表は作成されているのであろうか。

 貢献度表で決定される「共同発明者」とは、実質的に協力し、発明を成立させた者をいうので、単なる管理者は共同発明者ではない。論文の書き方を指導したに過ぎないというのであれば、共同発明者ではなく、論文の共同執筆者でもない。部下の研究者に対して一般的管理をした者、たとえば、教授が、具体的着想を示さず単に通常のテーマを学生や助手に与えた場合、又は部下の発明の過程において教授が単に一般的な助言・指導を与えた場合は、教授は共同発明者ではない とされている。

 又、単なる補助者は、共同発明者ではない。指導教授の指示に従い、単にデータをまとめた学生や、単に実験を行った学生は共同発明者ではない 。小保方さんに頼まれて単に従来既知の技術を応用して光るネズミを作ったのであれば、共同発明者でもなければ、論文の共同執筆者でもない。共同発明者でもないし、共同執筆者でもない人間が、論文の取り下げを提案しているとすれば、不合理である。

小保方さんのラボノートの冊数の問題よりも、理研やハーバード大學が、きちんと共同発明者全員の協議をして、その協議の結果としての貢献度表をラボノートとして残しているかということの方が、無体資産の観点から重要である。

鬼の法務部


§6 暗黙知を形式知にする

 知識には「暗黙知」と「形式知」がある。「暗黙知」は個人の脳の内部に格納された知識であり、「形式知」は文書等の形式で、脳の外部に表現される知識である。

エジソンはペンと紙を常時携帯し、「暗黙知」として思い浮かんだ瞬間には面倒くさがらずに書き留めて「形式知」にしていたことで知られている。常に自分に「アイデアノルマ」を課し、一生の間に、3500冊を超えるノートに「形式知」としてのアイデアをしたためたと言われている。或いは、エジソンは300万枚のメモや手紙を残しているとも言われている(ウェンガー他著、田中孝顕訳「アインシュタイン・ファクター」きこ書房、p97)。

 レオナルド・ダ・ヴィンチ、アインシュタイン、アイザック・ニュートン、ファラデーもメモ魔として有名であリ、ウェンガーはメモや手紙を書くことは天才の兆候であると述べている。又、株式会社三陽商会の創業者吉原信之氏も思いついたアイデアを逃がすまいと、自宅のあちこちにノートとペンを置いて「形式知」にしていたと言われている。

 エジソンらのように、自分が考えた事や、感じた事を何らかの形で表現して「形式知」に変換する度に、例えば、その考えをメモとして「形式知」に変換することは、行動心理学上、非常に重要である。

 自分の脳の中に「意識現象」として発生した「暗黙知」としての「情報」を、手を使って紙にメモして「形式知」にすることにより、メモする感覚や創造された行動が強化されて脳に自然な形で指示が伝わって「情報」がフィードバックされ、再入力されるということである。即ち、「想像はそれを表現する行動により創造される」というのが行動心理学の基本法則(第1法則)である(上掲「アインシュタイン・ファクター」、p45及びp109等)。

 自分の脳の内部にある「暗黙知」としての情報は一度、人間の意識が自分の外部にある「形式知」としての「実体としての情報」に変換し、「形式知」として残す作業が行動心理学上重要になるのである。行動心理学の第1法則によれば、「形式知」に変換する作業により、脳の内部に発生した「情報」が、リアルタイムでフィードバックされ、ワーキングメモリとして脳の意識が強化される。

 更に、その「形式知」を、一定の時間が経過後、人間の意識が読み取って新たな「意識現象としての情報」に加工することも重要である。アインシュタインは、「私は天才ではありません。ただ、人より長く一つのことと付き合っていただけです 」と述べている(出典 アルベルト・アインシュタイン 『アインシュタイン150の言葉』)。

 自分がラボラトリー・ノートに出力した「形式知」を、単なる「発想」にとどめず、ラボラトリー・ノートに記載された内容を時々見直すことを継続して、人より長く検討し、「発想後のプロセス」も記録に残すのが重要なのである。


§7 個人のラボラトリー・ノートではなく、組織の「知的資産」としての記録が重要

 「知的資産」とは、従来のバランスシート上に記載されている資産以外の無形の資産であり、企業における競争力の源泉である。人材、技術、技能、知的財産(特許・ブランド等)、組織力、企業理念等、財務諸表には表れてこない目に見えない経営資源の総称である(中小企業基盤整備機構 知的資産経営マニュアルp5参照。)。

 「知的資産」には、人的資産、構造資産及び関係資産の3つがある。「人的資産(Human Capital)」とは、属人的資産であり、個人に従属する「暗黙知」としての資産である。人的資産には、ノウハウ、イノベーション能力、人脈、経験、学習能力、経験等が含まれる。人的資産は、従業員が退職時に企業から外部に持ち出すことのできる資産である。

 「構造資産(Structural Capital)は「組織資産」とも呼ばれ、従業員が退職しても組織(企業)に「形式知」として残る資産である。従業員が退職時に組織(企業)内に残すことのできる資産には、実験データ等のデータベース、ラボラトリー・ノート、ノウハウ文書、特許権、商標権、マニュアル、システム、組織の仕組みや柔軟性、企業理念等が含まれる。組織(企業)としてのノウハウとなるような伝統やチームワーク等は、組織の暗黙知として存在する場合がある。

 「関係資産(Relational Capital)」は、組織(企業)の対外的関係に付随したすべての資産であり、共同研究の成果、供給業者との関係、銀行や支援者との関係、顧客との関係(顧客満足度、顧客ロイヤリティ)、イメージ等が含まれる。STAP細胞の場合は、理研やハーバード大學に関係資産が発生する。

 属人的「暗黙知」である人的資産を、如何に「形式知」としてラボラトリー・ノートに記録することにより構造資産に移動し、再配分するかが組織(企業)にとって重要である。共同研究契約の締結に際しては、ラボラトリー・ノートに記載された「関係資産」は契約前の発明の帰属を立証する情報となり、契約当事者間の無用の争いを防止する機能を有する。

小保方さんが割烹着を着た研究風景の写真が報道されているが、誤解を招く写真である。現在の先端技術の研究のほとんどは組織研究であり、本来的に構造資産や関係資産の性質を有している。理研は新たに技術員2人を採用し、計6人で1年かけてSTAP細胞の作製を再現できるかどうか検証するとしているが、STAP細胞の作製はチームとしての組織研究であり、組織としてどのようなラボラトリー・ノートを構造資産や関係資産として残していたかが重要である。

 組織研究においては実験補助員等の補助スタッフの記録も重要であり、実験測定や測定装置に付属する運転日誌等もラボラトリー・ノートに含まれるはずである。又、研究者が補助スタッフに出す指示書(命令書)や、試料に付属するレシピ等の試料データ、或いは補助スタッフから研究者へのレポートやメモ書き等もラボラトリー・ノートである。

 更に、組織内で行われる検討会、発掘会、勉強会やブレーンストーム等の議事録や研究週報や所内レポート等もラボラトリー・ノートである。組織内で行われる検討会、発掘会、勉強会やブレーンストーム等の議事録は、後日、誰が着想したのか、誰が発明したかの証拠になりうるので注意が必要である。

 Howard M. Kanareの著書"Writing the LABORATORY NOTEBOOK"において、『ラボラトリー・ノート(laboratory notebook)は科学者の最も重要なツールの一つである。ラボラトリー・ノートは、実験や観察から物理的現象を根本的に理解するまで、研究者の精神的及び肉体的活動を記録し、永久的に残すことを目的とする。…(中略)…。職場や研究所でどのような名称で呼ばれようと、科学的研究の進捗状況を記録するのに使用される、通し番号で頁が装丁した記録の集合がラボラトリー・ノートである』と定義している。

 測定装置から出力される生データは一次情報として重要ではある。しかし、一次情報のみがラボラトリー・ノートではない。組織研究としての研究の進捗状況を証明するのは、一次情報を加工した研究週報や所内レポート等の「組織資産」としての二次情報であろう。即ち、ラボラトリー・ノートは以下の3つの階層に整理されるであろう:


 (i) 一次情報:アイデアメモ、実験計画書、先行技術調査等の外部から得られた情報の分析結果、測定装置から得られた生データ、シミュレーションデータ、実験測定や測定装置に付属する運転日誌、外部機関に委託して得られた生データ、研究グループ内での指示書(命令書)、工程書(工程図)、設計図、試料に付属するレシピ(試料データ)、研究日報等の毎日集積される原始情報

 (ii) 二次情報:一次情報をもとに加工又は分析(解析)して整理した研究週報、所内レポート等の週単位程度の短期でまとめられる加工情報、更には研究計画書、事業報告書、発明提案書、共同研究者の貢献度表、ノウハウ文書等の比較的中/長期でまとめられる加工情報、一次情報の管理に用いる情報

 (iii) 三次情報:二次情報をさらに加工又は解析して整理した情報であり、二次情報等の下位の情報との紐付けをする索引や目次情報(二次情報以下の下位の情報の管理に用いる情報)

 膨大な一次情報を後日調べても、研究者本人であっても、記憶が薄くなれば、何が何だか分からない場合がある。一次情報を後で見直すというのは希れで、現実にはできない場合が多いであろう。そのとき重要なのが二次情報や三次情報であり、二次情報や三次情報等の高次の情報が一次情報と紐付けられるように階層構造で整理されていれば、高次の情報を介して一次情報が検索でき、活用できるはずである。

 又、重要な一次情報は必ず二次情報として組み込まれているはずである。特に、「構造資産(Structural Capital)」として重要な二次情報であるノウハウ文書には、重要な一次情報が必ず組み込まれているはずである。一方、結果的に「組織資産」として機能できない大量の残骸としての一次情報もある。

 大きな研究プロジェクトになれば、三次情報を更に区分けして、研究進捗表、個別の研究グループ(内部グループ)の抄録や研究マップのような三次情報と、三次情報以下の下位の情報との紐付けをする索引や目次等の機能をなす四次情報に分類する階層構造もあり得るはずである。三次情報や四次情報は、全体が瞬時に把握できるように簡潔にまとめないと、逆に意味のないデータになってしまうはずである。

 一般的に、ラボラトリー・ノートには、「網羅性」「検索性」「保存性」「使いやすさ」「実証性」「行動心理学におけるワーキングメモリとしての機能」が求められているが、情報を階層構造に整理して記録することにより、必要なときに必要な情報が迅速かつ正確に検索できる。又、実験記録等を階層構造に整理しておくことにより、実験の再現等のために必要な事柄を全て正確に網羅して記録しておくことができるとともに、証拠としての実証性も向上する。

 又、三次情報や四次情報等の高次の情報の記録は、データの特徴、研究計画とのずれ等の、研究の状況を一目でわかるような視認性を高める効果を奏することができる。

 かつて恩師西澤先生は「三年日誌」を付けることを若い研究者へ指導しておられた。三年日誌に自分のアイデアの要旨、TODOリストやその日の研究結果の要約を、三次情報や四次情報として簡潔に纏めて書き留めているのであれば、ラボラトリー・ノートは、3年で1冊である。しかし、この三次情報や四次情報である三年日誌をインデックスとして、膨大な一次情報や二次情報等の電子データが検索されることになろう。

 ラボラトリー・ノートを階層構造にまとめれば、最上位の三次情報や四次情報は3年で1冊でもよいはずある。

鬼の法務部


§8 人的資産としてのラボラトリー・ノートの問題

 ラボラトリー・ノートの帰属は、企業や研究所等の組織である。しかし、今回の米国特許法の改正により、企業は出願時に発明者のサインをもらわなくても、企業が出願できるようになってしまった。自分の発明を勝手に企業に他人を発明者として出願することも可能になったのであり、発明者が軽んじられるという弊害も考えられる。

 企業の従業者の発明(従業者発明)には3種類ある。「自由発明」「業務発明」「職務発明」である。「自由発明」は使用者の業務範囲に属さない発明である。「業務発明」は使用者の業務範囲に属する発明であって、現在又は過去の職務に属さない発明である。

「職務発明」は使用者の業務範囲に属する発明であって、現在又は過去の職務に属する発明である。我が国特許法は、「特許を受ける権利」や「特許権」は、「職務発明」であっても原始的に従業者である発明者に帰属するという発明者主義をとっている。「自由発明」と「業務発明」の場合は発明者が個人で出願することが可能である。

 従業者である発明者が、「職務発明」の「特許を受ける権利」を企業(使用者)に譲渡することによって企業(使用者)が特許の出願人となることが可能である。この企業(使用者)が「特許を受ける権利」を承継(譲渡)する際には、相当の対価(補償金)の支払を受ける権利が従業者にあるという権利主義を、我が国特許法は基本的理念としている。

 平成16年に改正された現行の特許法では、職務発明に係る「相当の対価」を使用者等と従業者等の間の「自主的な取決め」にゆだねることを原則としている。しかし、契約、勤務規則その他の定めに基づいて対価が支払われることが不合理と認められる場合等には、従来の職務発明制度と同様に、一定の要素を考慮して算定される対価を「相当の対価」としている。

 ラボラトリー・ノートの帰属は組織であるが、相当の対価(補償金)の支払を受けない場合は、ラボラトリー・ノートに記載された内容に相当する「特許を受ける権利」は未だ発明者にある。又、「自由発明」と「業務発明」の場合も、ラボラトリー・ノートに記載された「自由発明」と「業務発明」の内容に相当する「特許を受ける権利」は発明者にある。このような場合に、一律に、ラボラトリー・ノートの帰属が組織にあるとすることに問題が発生する可能性がある。

 我が国でも、特許法の職務発明の規定を改定し、法人発明を認めようとする動きがある。しかし、発明者は自分が発明したということをしっかりと主張すべきであるので、人的資産の証拠としてのラボラトリー・ノートが重要になる場合もある。発明者が自分のなした属人的資産としての発明であることを立証するために、ラボラトリー・ノートが使われる可能性もある。

 「自由発明」と「業務発明」の内容に相当する場合は、ラボラトリー・ノートへ記載すべきか否かという問題もある。特に、実験データを考察しているときに、企業の従業者が現在又は過去の従業者の職務に属さない発明を着想した場合、その着想をラボラトリー・ノートに記載する行為はどう評価したらよいのかという問題がある。


§9 紙のラボラトリー・ノートでよいのか

 ある大學の産学連携本部が紙のラボラトリー・ノートの施錠管理等を推奨する文書を発行しているのを、インターネット上で発見した。そこで、その大學の教員に確認したところ、自分の研究室では、紙のラボラトリー・ノートの施錠管理はしていないとのことであった。又、身近な研究室で施錠管理している研究室も知らないとの話であった。ラボラトリー・ノートの管理は建前だけでは意味がなく、実情に即した管理であるべきである。

 特に、ラボラトリー・ノートを施錠管理した場合は、ラボラトリー・ノートに記載された内容を、研究者が必要なときに、随時見直し、検討や考察を加えることが不便である。更に、施錠管理した場合は、ラボラトリー・ノートに求められる「使いやすさ」や、折を見て見返すことが出来る「保存性」の性質も欠くこととなり、研究の進展にも影響を及ぼす。

 紙のラボラトリー・ノートでは、以下の内容、又はこれらに等価な内容が必須記載項目とされている。

 (a) 実験のタイトル(研究課題)
 (b) 実験の日付
 (c) 実験目的(研究の目的)
 (d) 実験に用いた材料、試薬、試料と方法(材料等の入手先や純度等を含めた実験の再現に必要なパラメータ)
 (e) 実際に行った実験の手技や実験装置の設定値(実験の再現に必要な実験装置の詳細なパラメータやレシピ)
 (f) 実験結果(実験データ)
 (g) 実験結果に対する考察

 更に、必要に応じて、共同実験者名、実験室の気温、湿度、空気中のダストの個数や塩分、或いは実験を行った地域の天候、振動等の実験の外乱となる環境条件、ノート番号、プロジェクト番号、仮説、研究計画やアイデア等が必須記載項目として加わる。これらのラボラトリー・ノートに記載すべき必須記載項目やその優先順位(記載の順番)は研究分野や研究の性質によって異なる。更に同一の研究所であっても、プロジェクトによって様式が変わる可能性がある。特に、どのようなことを必須記載項目にすべきは、実験目的や研究内容の特徴に応じて研究者や研究者の管理者が工夫すべき事項である。

 実験や研究の内容によっては、試料の製造や測定に1週間以上、若しくは月単位の日時が必要なものもあり、その場合は、上記の「実験の日付」や日付に関係する項目の意味が変わってくるであろう。

 「製本されたノート」をラボラトリー・ノートとして採用するのは、大學や高専の学生実験の入門過程での指導としては意味があるかもしれない。しかし、ラボラトリー・ノートの具体的な書き方については、各大學や各高専に委ねることが多く、最低限必須な事柄(日付、時間等)と、基本的な精神のみを教えるだけのようである。実験目的や研究内容の特徴に応じたフォーマットの工夫までは、入門過程での指導としては、十分な指導がされていないようである。

 「製本されたノート」の場合、優先順位の異なる必須記載項目を統一した様式にするには、非常に多種類の様式の「製本されたノート」を予め準備しておくことが必要になり、不便である。特定の研究に対して優先順位の低い項目が必須記載項目としてノートに印刷されている場合は、優先順位の低い項目を記載しない研究者も出てくるのでラボラトリー・ノートの管理が難しくなる。


§10 ユビキタス時代におけるラボラトリー・ノート

 行動心理学の第1法則として紙のメモを「形式知」として残すのは、重要である。しかし、今は、手書き入力で電子データが残せるユビキタス時代である。又、キーボード入力であっても行動心理学の第1法則は有効であろう。「ラボラトリー・ノート」もIT化すべきである。

 「電子ラボラトリー・ノート(ELN)」の採用により、一次情報に記載すべき研究分野、研究の性質、プロジェクトによって変わる必須記載項目、必須記載項目のテキストサイズ、必須記載項目の順番や配列等の様式を、研究者の管理者が使い易いフォーマットにカスタマイズすることができる。

 それぞれの組織の管理者が使い易いカスタマイズされた一定のフォーマットのELNによって、一次情報を記録することにより、ELNに記録された電子データを一覧表のようにまとめデータベース化することや、その後の二次情報への編集や二次情報の作成のための実験データの整理に便利である。

 現在の測定装置の多くはコンピュータ制御になってきており、測定装置から出力される一次情報としてのデータも電子データである。測定装置からは、研究者個人のパソコン
へ電子データが転送され,電子データのファイルとして研究者個人のパソコンに保存されるのが実状であろう。研究者個人のパソコンのファイル名に実験条件を 書き込んで保存することで,実験条件のメモすら必要が無くなる。

 昔は、スペクトルデータ等はX-tレコーダを用いて、長い巻紙形式の記録紙に記録したので、長い巻紙をノートに貼り付けるのに苦労した。記録紙が高いので、費用を節約して長い巻紙の表と裏に記録したり、インクの色を変えて昨日のデータの上に更に重ね書きしたりしてしまうと、ノートに貼り付けることができない。現在は、測定条件、試料名、測定日、測定者のデータはすべて制御用パソコンに保存されるので、あえてスペクトル概要を実験ノートに記載することも不要である。

 一般に研究データは膨大であり、それを紙のデータとしてエジソンのように残すのは時代遅れであり、効率的ではない。従来の紙ベースのラボラトリー・ノートを一次情報の記録に使い続ければ、測定装置が出力した電子データと紙ベースの記録とに一次情報としてのデータが散逸する事態が発生し、一次情報の整理、実験データの解析、実験データに基づいた次の実験へのフィードバックなどに支障が出る。又、制御用パソコンに保存される電子データをわざわざ紙で出力して、出力された紙をノートに貼り付ける作業をするのは資源の無駄遣いになる。

 例えば、紙のラボラトリー・ノートのガイダンスには、「電子データについては、紙媒体にグラフや表を出力し、それをノートに貼りつける」となっていたりするが、現実には、電子ファイル名を、測定試料名、測定条件、実験条件と共に記載して、紙媒体にグラフや表を出力しないというのが殆どの実状であろう。全部貼っていたら、1週間でラボラトリー・ノートが1冊ということにもなりかねない。長尺のスペクトル情報をとるような、実験内容によっては、1日でラボラトリー・ノートが埋まる場合もあり得る。

 電子データでは証拠能力が低いという理由から、実験終了後、夜中までかけてデータや数値を細かくラボラトリー・ノートに書き写すとか、写真画像をラボラトリー・ノートにスケッチする等の作業は研究者の時間の無駄使いになるばかりか、書き写しの際のミスも発生しうる。研究者はその研究の速さ(スピード)で世界と争っているのである。写真画像をラボラトリー・ノートにスケッチする時間があれば、その時間分、さらにデータを取るべきである。

 テレビなどで「ラボラトリー・ノートは、研究者の命ともいえるものだ」というような、御高齢の識者からのコメントが放送されることがあるが、疑問である。IT時代の今、研究者はIT技術を用いて、より効率のよい研究し、効率よく研究記録を残すべきである。

 既に多くの研究所では組織研究による一次情報や二次情報の大半は電子データで管理されているはずである。島津製作所は、2007年に研究開発分野向けに ISO 15489 の記録管理に求められる要件を満たした記録管理システムを発売している。又、2008年には、塩野義製薬株式会社が、Cambridge Soft 社の「E-Notebook」を全社的に導入したことを発表している。最近ではITアプリ等にもELNがあるようである。

 ISO 15489 の記録管理に求められる要件は、2005年に制定されたJIS X 0902-1「情報及びドキュメンテーション-記録管理-」に対応し、以下の4要件が求められている:
(a) 真正性: 権限のある記録作成者が作成し、権限の無い人が記録の追加、削除、変更、利用及び隠ぺいすることから確実に記録を守るようにし、記録を管理する方針や手順を明確にして文書化していること     
(b) 信頼性: 記録されている内容が完全であることを信じることができることが大切で、そのためには、何かを実施した時に、事実について直接知っている人が、日常的に使用している機器で作成すること     
(c) 完全性: 記録は、その内容が完結しており、変更されていないことを意味している。記録に対する追加や注釈については、誰が、どのような場合に行っても良いかを明確にすること     
 (d) 利用性: 存在場所がわかり、検索でき、表示でき、解釈できる。記録は単に保存しておくだけでなく、その後の業務の中で利用し、活用できる内容であること

 簡単には、例えば、ELN入力端末となる研究者個人のパソコンや測定装置をELN管理サーバと同期させたシステムを構築しておけばよい。出勤して研究者個人のパソコンを立ち上げたら、ELN管理サーバによってELNの画面が表示されるようにすればよい。そして、ELNの画面に一次情報として記載すべき必須記載項目を記載しないと、研究者は次の作業に移れないようにしておけばよい。

 ELN管理サーバと同期させたシステムによって、その日のうちは、研究者個人のパソコンの操作で、自由に書き換え可能にしておき、ELN管理サーバにデータを送信しないと、研究者個人のパソコンや測定装置がシャットダウンできず、退社もできないようにすればよい。メールサーバとほぼ同様なシステム構成にしておき、ELN管理者が、日付等と共に電子スタンプを入れたら、ELN管理サーバに送信されたデータは、書き換え不可のファイル形式のデータとなる。

 ELN管理サーバに一旦保存されたデータは、PDFファイル形式等の「閲覧のみ」可能になるファイル形式に変換される。ELN管理サーバに保存された過去のデータは、研究者が閲覧利用できるが、ELN管理サーバに保存されたデータの内容の変更はできないようにすれば、ISO 15489 の「真正性」「信頼性」「完全性」が確保できる。特に、ELN管理サーバへのアクセスに対するポリシー・セキュリティーが構築できる。ELN管理サーバに保存してしまえば、「後で書き足せないように空白は埋める」という紙のラボラトリー・ノートに必要な作業は不要である。

 一方、研究者個人のパソコン側では、ELN管理サーバに保存したのと同じデータを、所望のアプリケーションソフトで書き換え可能なファイル形式でバックアップデータとして保存して、ELN管理サーバ側からの許可を得て、その日の作業を終了する。バックアップデータは、複数箇所に保存してもよい。

 翌日は、研究者個人のパソコンを立ち上げたら、再びELN管理サーバによってELNの画面が表示される。研究者個人のパソコン側では、ELN管理サーバに保存されているデータと同一内容のバックアップデータを書き換え可能のファイル形式で読み出し、翌日得られたデータを用いて、データの編集や演算処理をすることが可能であるようにすれば、ISO 15489 の「利用性」が確保できる。

 設計情報などは書き換え可能のファイルに書き込み、上書き更新できるようにしておかないと、意味がなくなるものもある。

 そして、翌日の作業が終了したら、前日と同様に、ELN管理サーバにデータを送信しないと、研究者個人のパソコンや測定装置がシャットダウンできない。そして、ELN管理者が、電子スタンプを入れたら、ELN管理サーバに保存されたデータは、書き換え不可のファイル形式のデータとなるようなISO 15489の要求に準拠したELNのシステムは、簡単に構築できるはずである。

 ELNの場合も、ELN管理サーバに毎日送信される一次情報よりも、試料毎や実験条件毎にフォルダに整理されたニ次情報の方が利用価値は高い。所内レポート等のニ次情報も電子データで作成され、今、紙媒体を保管(整理含む)することは希であろう。

 いくつかの装置開発や実験を平行している研究者であれば、時系列の生データよりも、装置毎に対応して設けられた複数のELNのフォルダに、パラレルに出力して記録されることになる。

 このように、研究の高効率化には、電子データの階層的かつ並列的な整理が重要となる。


§11 電子ラボラトリー・ノートの証拠能力

 電子ラボラトリー・ノートの証拠能力を疑問視する声もある。しかし、(株)日本電子公証機構のような外部の第三者によって、第三者の立場でELNに記載された電子ファイルの内容と存在の証明(タイムスタンプ)をすることが可能である(http://www.jnotary.com/)。

 実は、紙のラボラトリー・ノートであっても、「第三者のサイン」が組織の内部の人間のサインである場合は、証拠能力が疑問視される場合がある。

 このため、二次情報としてのノウハウ文書を作成し、作成されたノウハウ文書に対し(株)日本電子公証機構による証明を行うことにより証拠能力を高める工夫を一部の企業で始めているようである。ノウハウ文書には全部を秘密にする二次情報と、一部を公開可能な二次情報がある。一部が公開可能な二次情報の内の一部の二次情報が論文や特許の形で、外部に公開される。

 ノウハウ文書は、特許の明細書と同様な項分け記載した様式で作成しておくことが、後日の利用価値を高める上で重要である。特許の明細書及び図面は技術を無体資産としてまとめるのに好都合の形式になっている。

 今後は、(株)日本電子公証機構と同様な、ELNの内容と存在の証明を外部機関としてするようなクラウドサービスが新たなビジネスモデルとして発展するであろう。

 仮に、紙でのラボラトリー・ノートが残るとしても、それは、「三年日誌」のようなインデックス的な目的でしか使われないであろう。打ち合わせのメモ、実験中に突然浮かんだアイデアや構造図を殴り書き的に書き込んだり、その原理検証的な簡単な計算を行ったりするのには、手書きの方が便利なこともある。

 しかし、この場合も手書き入力等の形式で、電子データとして残せるであろうし、クラウドサービスと連携することにより、外部機関による認証を得ることができるようにできるであろう。